「横浜骨董ワールド骨董縁起帳」

横浜生まれ、英国びいき、葉山暮らし

歴史のある町に生まれ育ったアンティーク好きの暮らしは楽し!


ある日の神奈川新聞コラム「照明灯」で郷土愛について語られていました。テレビをつければ都道府県を代表するようなタレント、スポーツ選手、歌手が並んでのお国自慢。その郷土愛が排他的でなく、個性を誇る心意気である事が宜しいと結んでいますが、その中で横浜市民が当然のように歌える「市歌」は、他県民からすると「市の歌を、みんなが歌えるなんて信じられない!」との事です。

この横浜市歌、横浜生まれの私も当然歌えますよ。たしか小学校の行事には校歌と並んで必ず歌った記憶があり、その美しい歌詞とオペラのような歌いこみのあるメロディーにうっとりとしたものです。それもそのはず、作詞は森鴎外、作曲が今の東京芸術大学教師の南能衛でした。後日談ですが、その謝礼が作詞に 100円、作曲に50円だったとか...当時の貨幣価値の目安が100円で今の70万円ほどとのことですので合計100万円程で作られた名曲という事になります。

わが日の本は島国よ 朝日輝く海に
連なりそばだつ島々なれば あらゆる国より船こそ通え
されば港の数多かれど 此横浜に優るあらめや
昔思えばとまやの煙、ちらりほらりとたてりしところ
今は百舟百千舟 泊まる所ぞみよや
果てなく栄え行くらん御代を 飾る寶も入り来る港

簡単に意訳すれば、「島国日本にはあらゆる国から船がやって来ますが横浜の港は日本一です。昔は粗末な家から炊事の煙がたつ様な寂しいところでしたが、今は屈指の港、活気のある港になりました。果てしなく栄える横浜港には世の宝がやってきます」でしょうか。この歌は1909年(明治42年)7月1日に横浜港、新港埠頭で開かれた「開港50周年記念大祝賀会式典」の時にお披露目され、それ以降横浜市民に口ずさまれてきた名曲なのです。今年は横浜開港150周年に当たりますのでこの名曲はまさに100歳という事になりますね。

中学校時代の日本史の知識からですが幕府の政策上、17世紀の初めから見え隠れしていた鎖国が1637年(寛永14年)に起こった島原の乱を契機に本格化。キリスト教や外国の文化は幕藩への脅威とし、日本は外国に対する門戸を閉鎖してしまいました。

1853年(嘉永6年)にアメリカからペリー提督が浦賀に来航して1858年(安政5年)の日米修好通商条約締結に至るまでの長い間、日本は対外的に孤立状態になっていたのですが、この条約を契機に安政五カ国条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結び、横浜、長崎、函館、新潟、兵庫の港をそれぞれ開放したのでした。

そして、1867年(慶応3年)に徳川慶喜が国家統治権を明治天皇に返上した大政奉還という一大事件があり日本の国家体制は大きく変わりました。米国からは横浜の歴史に欠かすことのできないミッションスクールの生みの親ともいえる米国婦人一致外国伝道協会から多くの宣教師が日本に派遣されてきます。私の母校は今年で創立137年になりますが1871年(明治4年)にやってきた3人の宣教師、プライン、クロスビー、ピアソンによって山手48番に設立され、混血児の教育と子女の教育に力を注ぐところから今の姿になったと聞いています。丁度私が高校3年生の時は学校創立100周年に当たるため、記念のページェントが行われ、背が高く大人っぽい子だった私は宣教師の一人プラインの役を頂戴し、自作のレトロなドレスを身にまとい、学校への子女勧誘のビラ配りを路上でし、憲兵に切りつけられそうになる役柄を演じました。自由の少ない、危ない世の中だったのですね。 その年の体育祭では100周年を記念した仮装行列が行われ、高校3年生は受験があるので参加必要なしと言われても私たち元気でやんちゃな高3C クラスは関せず、プライン、クロスビー、ピアソン、そして当時の子供たちや町の人たち、憲兵などをクラス中で演じ、話題になりました。

そういえば私が通った根岸小学校も歴史は古く、1873年(明治6年)に大聖院という寺子屋からスタートした先生3人、子供30人余りの学校だったそうです。その昔は海からの波がうちよせていたというこの小学校も今年で136歳。さすがに近代的建物に変わり、入り江も埋め立てが進み、海は遠くなりましたが、昔からのシンボル、2本のくすのきの大木は今も大切にされているようです。「南の入り江にさざ波寄せて、背に立つ山には緑したたる。小鳥の歌や蝉鳴く声まで、楽しく響くはここのこの庭...」と続いていく昭和33年製作の校歌には当時ののどかな様子が現われていて海のある町、横浜の良さが感じられます。

鎌倉幕府を開いた源頼朝も保養の為たびたび訪れたといわれるここ葉山も徳川時代が終わり明治時代になると別荘文化が花開くことになります。鹿鳴館時代と呼ばれる当時、華族や政府高官たち、特権を握った人たちや外国人はステータスシンボルとして湘南に別荘を持つようになりました。池田徳潤男爵、秋田映季子爵、ベルツ博士、有栖川宮別邸、岩倉具定公爵、金子堅太郎など多くの今で言うセレブリティー達が別荘を構えたわけです。外国人との接触や留学、遊学を通して英国や米国からの新しい風を受けた人たち、さながら日本の政治が葉山で行われたと言われる程の権力者も訪れていたようです。

葉山の御用邸は明治27年にベルツ博士からの進言で建造され、あわせて沢山の別荘が風光明媚、気候温暖、避暑避寒の地葉山に立ち並び、昭和の初めには500近くあったという事ですから驚きますね。この葉山をこよなく愛された大正天皇は48歳で崩御されたのですが、その地がこの御用邸でした。昭和天皇はその後すぐに葉山の地で天皇の位に就かれたので昭和の夜明けは葉山からと呼んでも過言ではないと思います。

今となっては、葉山の別荘たちもバブル経済の破綻にさらされ減少。そして企業、実業家が手放した不動産の解体、マンション化も進み、昔ながらの葉山はずいぶんと様変わりしてしまいました。 それでも風光明媚、気候温暖、避暑避寒、別荘時代からつちかわれた外からの人たちを寛大に受け入れる土壌、親切な人柄、田舎でありながら知性の通う文化や街並みは今もなお続いています。

古いものや歴史を通して日々築かれて来た暮らしや自然は金銭では買う事が出来ませんし、一朝一夕で作れるものでもありません。これからも続いていく横浜のエキゾチックで重厚な文化やモダンでありながら古臭くて快適な葉山の文化、そして堅実で物を大切にし、古いもの、歴史を重んじる英国の文化を大切にして沢山のステキな事を皆様にご紹介していけたら嬉しい!と思う私の今日この頃です。